木の板をひっくり返して閉店を示すと、アリババはさあ掃除に取り掛かろうと店内へ戻った。喫茶バルバッドは基本的に火曜日が定休日で、営業時間は朝の8時〜18時までである。季節などによってやや変動はするが、概ねそんな感じだ。忙しい時間帯や土日祝日にはバイトとして白龍やモルジアナが来てくれるので、特に回らなくなることはない。机を拭きながら明日のランチメニューを考えていると、慌ただしく店の扉が開いて一人の人物が飛び込んできた。
「すまないアリババくん、しばらく匿ってくれ!」
「え、シンドバッドさん!?」
長い髪を靡かせながら入ってきた人物は件のジャーファルの上司であり、シンドリアという大企業を若くして立ち上げ一代で栄えさせたやり手であるシンドバッドであった。シンドバッドはアリババの父と親しく、公的にも私的にも仲良くしている間柄だ。そもそも企業を立ち上げるためにシンドバッドがアリババの父に指南役を請うたことが始まりで、頻繁に父の下で勉強する傍ら息子であるアリババを構い倒してから帰るのがシンドバッドの楽しみでもあった。アリババにとっても昔から良くしてくれる人物であるシンドバッドは大切な人であり、また憧れの対象でもあった。そんなシンドバッドが大きな溜め息を吐き出しながら疲れたように椅子に腰掛けたのを見て、アリババは持っていた布巾を机に置いて歩み寄った。
「どうかしたんですか?」
「どうもこうも…ジャーファルくんがしつこくてね」
大量の書類を手にしてずんずんと迫ってきた部下に恐怖を覚えたシンドバッドは、あの手この手でジャーファルをかわして逃げ出してきたらしい。今頃必死にシンドバッドを捜しているであろう人に申し訳なく思いながらもどちらにも味方出来ないアリババは、とりあえずとコーヒーを淹れに行った。
「うん、相変わらずアリババくんが淹れるコーヒーは絶品だ」
「あ、ありがとうございます」
週に一度はこの店に訪れるシンドバッドは、何を頼んでも必ずアリババに賛辞の言葉を述べてくれる。アリババにはそれが嬉しいやら恥ずかしいやらで、照れるアリババの頭を大胆に撫でてくるのもシンドバッドの特徴だった。
「ああ、そうだ…アリババくんこれを」
「?何ですか」
忘れる前にと懐から取り出した包みを差し出され、アリババは恐る恐る受け取った。質の良い紙で包装されたものは固く、問い掛けるようにシンドバッドに視線をやればニコリと口に笑みを浮かべる。
「俺が書いた新しい本だ」
「え……ええっ!?」
バッと手元の包みに目線を下げてもう一度勢いよくシンドバッドを見るアリババに豪快に声を上げて笑うと、良ければ読んでくれとシンドバッドは続けた。
「え、え、でも、俺シンドバッドさんが出す本のチェック毎回してますけど、新刊って来月発売じゃありませんでしたっけ?」
シンドリアの社長職の傍ら執筆活動も行っているシンドバッドの本は夢と浪漫に満ち溢れ、読む者をその世界に引き込む程の面白さがある。熱烈なファンも多く、アリババもその一人であり、いつもシンドバッドの本の発売日には予約票を片手に本屋に走っていく位には大好きだ。それを知ったシンドバッドは手土産に際し、ならばと一足先に刷った本を贈ろうとずっと機会を窺っていたのだ。
「発売は確かに来月だが、一番に君に読んでもらいたくてね」
内緒だよと指を一本唇に当ててパチリとウィンクするシンドバッドに赤くなりながらワタワタするアリババは、ありがとうございます!と包みを両手でしっかりと深く抱き締めながら頭を垂れた。
アリババが奥に一度引っ込んで大切に本を仕舞ってから戻ると何やら真剣な顔で迎えられた。シンドバッドが腕を組みながらジッと戻ったアリババの姿を観察する。
「それにしても…」
こちらを見てうーんと唸るシンドバッドに何か可笑しな所でもあるのかと自分の姿を見下ろすアリババに、シンドバッドの手が伸びてきて一息に抱き寄せられた。
「ちょ、え、シンドバッドさん?!」
「やっぱり…アリババくん少し太った?」
椅子に座るシンドバッドの膝の上にちょこんと乗る形で寄せられたアリババは、シンドバッドのその言葉にギクリと体を跳ねさせた。
「えっと…最近新しいスイーツ増やそうと思って試作の試食繰り返してたから…たぶんそのせいです」
うううとしおれるアリババに苦笑しつつ、シンドバッドはおもむろにアリババの腰に手を這わせた。
「ッ、ひ…っ!な、何ですかシンドバッドさん」
「んーいや…どれくらい太ったのかと」
そんな風に言いつつスルスルと手を動かし、黒いエプロンを纏う身を撫でていく。腰から腹までくるりと這わせてなぞるようにゆっくりと動かしていく。
「ぅ、ぁ、く、くすぐったいですから」
「くすぐったいだけ?」
どこか艶を纏ったシンドバッドの目に見詰められて、アリババは心音が増すのを感じた。うーうーと泣きそうになりながら体を捩ってシンドバッドの腕の中から抜け出そうとするが、シンドバッドからすればささやか過ぎる可愛らしい抵抗でしかなく、構わずにより深く抱き込む。
「ふ、ぅ、も、やめて下さい」
「はは、からかい過ぎたね」
弱々しい声音にやり過ぎたかとシンドバッドは謝罪した。すまないとようやくパッと離れた手を恨みがましい目でアリババは見ているが、荒くなった呼吸と色付いた頬のせいで全く怖くない。
「もう、俺だから良いですけど他の人にこういうことしたら捕まりますよ」
スキンシップが日頃から過多なタイプであるシンドバッドを今更疑うことのないアリババは、それに慣れている自分ならまだしも世間一般においては普通とは言えない触れ合いに釘を刺しておく。アリババのシンドバッドへの感覚は慣れているというか慣らされたと言った方が正しいのだが、アリババは知る由も無い。シンドバッド自身もアリババくんにしかしないんだけどなぁとほのぼのとした意識でアリババを見詰めていた。
「それよりあの、重いでしょうしもう降りても良いですか?」
「うん?良いじゃないかまだ。折角の逢瀬なんだから」
おずおずと聞いたアリババの言葉を一蹴して、より深く目の前の身体を抱き込んだシンドバッドは気付かなかった。店に近付く殺気立つ気配に。
「シン!どうせここにいるんでしょう、さっさと…」
開かれた扉と何者かの怒声。三人の視線が絡み合いピシリと音を立てて凍った空気にアリババは戸惑いつつ、拘束していた腕が緩んだ隙にとソッとシンドバッドから離れた。
「…………シン?」
「いやいやいやいやちょっと待ってくれジャーファルくん、話せば分かる」
「生憎と私はアンタのようないかがわしい変態に通じるような低俗な言語など持ち合わせていないもので」
ギチリギチリといつの間にか取り出された長い紐がジャーファルの手によって音を立てる。それを青ざめた顔で見やるシンドバッドはジリジリと後退するが、そんな微々たる距離などジャーファルにとっては関係無かった。一気に間合いを詰めて手にした紐でシンドバッドを絞め落とし、そのまま床に倒れた上司である筈の男をまるでゴミでも見るような眼で見下ろす。そうした一連の動作を一瞬で行ったジャーファルは、茫然とするアリババの元へこれまた素早く向かいそのまま腕の中に閉じこめた。
「すみませんアリババくん、あんな危険人物を野放しにしていた私の責任です」
何されたんですか大丈夫ですかとしきりに心配してくるジャーファルに抱き込まれながらアリババは処理仕切れない出来事に目を白黒させていた。
「え、えっと俺は大丈夫です。それよりシンドバッドさんが…」
「ああ、良いんですよ。上司を諫めるのもまた部下の務め」
ですからアリババくんがあれを気にする必要はありませんよと柔らかい声で告げられる。え、え、そうなの?でも…とグルグル悩むアリババから一度身体を離し、ゆっくりと髪を撫で梳きながらジャーファルは表情を曇らせた。
「常日頃から感じていましたが、アリババくんには警戒心というものが足りないように思います」
「警戒心…」
伝えられた言葉に首を傾げる。自分にだってそれ位なら備わっていると。
「それはあの、シンドバッドさんですし」
「………シンになら何をされても良い、と?」
底冷えするような鋭さが一瞬ジャーファルの目に宿ったがアリババは気付かず、そういう訳じゃないんですけど…と真面目に答えを返していた。
「俺だって男ですから。何かあってもそれなりには対処出来ます」
防犯知識や護身術なども一通り教育を受けたアリババはしっかりとした顔で頷いた。
「……そうですか」
「はい、だから安心して下さい」
グッと拳を力強く握って晴れやかな顔をするアリババに軽く息を吐き、ジャーファルは静かにアリババの名前を呼んだ。すると当然の如く何ですか?と聞いてくるアリババの肩を引き、顔を寄せ目元に唇を落とす。
「ほら、十分無防備です」
ねえ誰に対しても気をつけて。
でないと、
「食べられてしまいますよ?」
スルリと耳を指で辿られ、大袈裟なまでにアリババの身体は跳ね上がる。クス、と一つ上品に笑ったジャーファルは真っ赤になったアリババから手を退けてシンドバッドの元へと戻った。そのままシンドバッドの首根っこをひっ掴み、それではお邪魔しましたと扉まで悠然と歩いていく。…勿論気絶したシンドバッドはズルズルと引き摺られる形で運ばれる。また後日お詫びにきますと微笑んだジャーファルはアリババの返事を聞くことなく立ち去ってしまった。残されたアリババは一人、熱くなった顔をどうにかしなければと絡まった思考のままぼんやり考えていた。